か1897年、漢訳仏典の正確さに疑問を抱いた慧海は、チベット語仏典の研究を志し,鎖国体制のチベット探検を計画し、単身でインドを経てネパールへ向かった。

慧海の写真と当時世話をしたネパール人の末裔

慧海は当初インド・ダージリンに滞在し、チベット語を学ぶことに。その後、カトマンズを経てポカラへ。ダウラギリ山群とアンナプルナ山群の間を流れるカリガンダキ渓谷を経てチベットを目指そうと試み、ムクティナートまでやってくるが、警備が厳しくて入国を一旦あきらめ、(タカリー族)の村、マルファにてチベット語を勉強することに。

赤い線を通って慧海が歩んだ道

慧海が日本から持ってきたというカメラ

チベット仏教を信仰するマルファ村には大きな寺院もあるため、寺院に通いながら数か月間に及ぶ滞在となった。その際彼が宿泊した家が当時のままの姿で現存している。

村のはずれ近くに彼の住んだ家が残っている

雪に閉ざされていた長い冬が終わり、ヒマラヤ越えをするために村を離れ、ドルポ(ネパール西)にあるシェ寺に立ち寄り、クン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功した。チベット内にある白巌窟(ゴジャル寺)の尊者ゲロン・リンボチェとの面会、進路を西にたどってカイラス山を巡礼後、ラサに向かった。

慧海が使用したという、ペチャ(経典)を見せてくれた

部屋に備えられた仏壇の最も上のところに大切に保管されていたペチャを取り出し、慧海が使用していた経典と説明をしてくれた。

当時でも貴重な紙に、金を使って経文が記されていた。

紙両面にびっしりと写経された経典

経を読み上げる度に一枚一枚めくられるために、経典の端の色が褪せていた

彼が滞在した家の主の末裔が健在(彼のおじいさんが慧海を世話する)、滞在した部屋は当時のままで貴重な遺品は数少ないが、大切に保管されている。