ネパールのほぼ中央に聳えるマナスル山群。 東西80㎞の巨大な山塊に各国が国家の威信をかけて熾烈な争いを行うなか、その盟主であるマナスルの頂に最初に足跡(1956年)をつけたのは日本隊(日本山岳会)であった。

同時に、この山域にはマナスル以外にもピーク29、ヒマルチュリという巨峰が鎮座し、これらすべての頂も日本隊が最初に登攀に成功した。 そのためマナスル3山を親しむ人が多く、現地では日本の山と呼ぶ人もいる。 日本人にとって最初の8000m峰がマナスルだった。

マナスル登頂の輝かし成果を収めたのは、登頂者である今西壽雄、ギャルツェン・ノルブの存在は大きい。 しかし、今と違って山に関する情報が乏しい中、登頂への情報提供に至った今西錦司先生を隊長とするマナスル調査隊の存在は非常に重要なことではないだろうか。 BCまでのアプローチ、山岳民族との交流、登攀ルートを調べつくした情報はのちのマナスル登頂へに繋がったのは言までもない事実である。

調査隊が初めてこの山域に入った4年後の1956年5月9日、槇有恒ら12人の日本山岳会隊の今西壽雄、ギャルツェン・ノルブが初登頂に成功した。

今西錦司先生は岐阜大学の学長になったのち、日本山岳会岐阜支部を立ち上げ、そして京都に戻ってから私が所属する日本山岳会京都滋賀支部を30年前に設立され、今に至っている。

 

今回、京都北山の緑多き場所にある今西先生の功績を称えるレリーフの整備作業に12名が参加。レリーフ周辺の石積みや登山道の整備など、多岐にわたって汗を流した。

驚いたことにレリーフの上の草地には一等三角点(レプリカ)が設置されていた・・・・・  この一等三角点の由来について知っているO大先輩が先生のレリーフを見ながら語ってくれた。

クリンソウが散生し足元を彩っていた

日本山岳会京都滋賀支部にとって毎年行う重要な活動

O氏:今西先生が滋賀や岐阜の山々を中心に日本の山を500名山を完登した際、仲間がお祝いの贈り物として何が良いか先生に尋ねたら、先生曰く『石が欲しい』とのこと。 つまり、石=一等三角点 であった。 明治に始まった国土地理院(当時は陸軍)による国土計測で日本中に埋設してきた一等三角点を興味を持たれていた。

仲間は石屋に依頼し、三角点と同様の堅い素材(御影石)でサイズ(柱中の1辺は18cm)書かれている文字の書体までこだわり、一等三角点のレプリカを贈呈。 長年先生のご自宅の庭に置かれていたが、先生が愛した北山にレリーフが設置されるのを機に、この三角点もここに移されたとのことだった。

【意外と知らない・・・三角点について】

日本には一等三角点が974か所(約40㎞ごと)設置され、それを補うようにして、2等、3等、4等と2つの5等の三角点(計10万基以上)が日本中に埋設。 地図を覗き込むと三角点は山の頂きを示すように標高と一緒に記載されている。だから山の位置と高度を示すイメージを持つ人が多いのではないだろうか? 実際は山の位置だけを示し、高度は水準点によって計測され、便意的に三角点と一緒に記載されているだけなのである。

地形図を拡げると民家の敷地の中や標高の低い山にも三角点が記載されていることに気づくのではないだろうか。 100年以上前から始まった三角点の設置は今も日本国土の測量の基点となっており、『点の記』として人間の戸籍のように、しっかりと国土地理院で管理されている。

点の記には・・・○○年○○月○○日、当時の気象条件、誰がどの道を通り、石を運ぶ際の担ぎ代○○円、など設置するに至る情報が事細かく記載されている。

明治時代に埋設された三角点は右から左に文字が掘られ、書体も大きく異なる。 方位も正確で文字の記載面(一等三角点と刻まれている面)は南を示している。 雄大な風景と一緒に三角点を眺めているだけで、三角点が設置された当時の様子が自然と浮かんでくるような気がする。

歴史的にも日本陸軍が携わったということで、台湾にも日本と同様な三角点がいくつも残っているのには驚きである。 一等三角点についてはこちら参照: 詳細 

 

今西錦司先生が建てた北山の小屋に足を延ばし・・・

参加者みんなで小鳥のさえずりを聞きながら昼食。

80年ほどの歴史ある山小屋

定期的に補修を行い、当時を思い出す立派な造りである。もちろん屋根は茅葺

 

小屋の目の前に作られた離れ 谷筋を抜ける心地よい風が気持ちよかった

 

小屋の手前には・・・